片山右京さん同行2人死亡確認「悔しいのと申し訳ない気持ちだけです。全部自分の責任です。助けられなかった」

富士遭難片山さん同行2人死亡確認

動画を他のプレイヤーで見るWMPWMP低. 元F1レーサー片山右京さんなどが富士山で遭難した事故で、19日昼すぎに残る2人が発見され、死亡が確認されました。

 「悔しいのと申し訳ない気持ちだけです。全部自分の責任です。助けられなかった」(片山右京さんの会見・19日夜)



 死亡が確認されたのは片山さんの事務所のスタッフで、東京都八王子市宇佐美栄一さん(43)と神奈川県横浜市堀川俊男さん(34)の2人で、死因は凍死でした。



 片山さんは18日に無事保護されましたが、残る2人は静岡県警が19日朝から捜索をしていました。



 県警は正午過ぎに標高2800メートルの富士山6合目付近で2人を発見し、ヘリで収容しましたが、午後7時過ぎに2人の死亡が確認されました。



 「力不足でした。すみません。申し訳ありません」(片山右京さんの会見)



 今回の登山は、来年2月からの南極行きに備えるための高地トレーニングでしたが、南極行きは中止となりました


片山右京さん:富士山遭難 遺族談話に号泣

 「助けられなかった。悔しいです。すみません」。元F1ドライバー冒険家片山右京さん(46)と一緒に富士山登山中に遭難した2人の遺体が19日に発見された。片山さんは同日夜、御殿場署前で記者団の取材にしょうすいした様子で応じた。



 遺体で見つかったのは、ともに片山さんが経営する会社の社員で、東京都八王子市、宇佐美栄一さん(43)と、横浜市港北区、堀川俊男さん(34)。



 御殿場署によると、県警の山岳遭難救助隊12人は同日午前7時から積雪が比較的少ない富士宮口から登り、御殿場方面へ回った。県警ヘリと連携して捜索、同日正午ごろ、6合目付近で黄色のテント1張りを発見。その後、テントから約150メートル下った位置で、別の黄色のテント1張りと堀川さんの遺体が見つかり、更に堀川さんの遺体から約10メートル下で、宇佐美さんの遺体が見つかった。



 片山さんは19日午前9時から約1時間半、同署の事情聴取を受けた。同署によると、「登山の責任は私にある。2人を連れていかなければ違った結果になっただろうと思います」と説明したという。



 片山さんは同日午後7時過ぎ、2人の遺体を同署霊安室で確認した。記者団の取材に、終始うつむきながら質問に答えた。遭難の状況については「夜が明けてから、呼びかけたりずっと抱き合ってたけど、反応しなくなって、呼吸が止まった」と消え入りそうな声で語った。



 同席した片山さんの経営する会社の関係者が亡くなった2人の遺族の談話を読み上げると、片山さんは大きなおえつをもらしながら泣き崩れた



★片山 右京(かたやま うきょう、1963年5月29日 - )は、日本のレーシングドライバー、元F1ドライバー登山家自転車競技選手。神奈川県相模原市出身(東京都新宿区慶應義塾大学病院出生したことから「東京都出身」とすることもある)。大阪産業大学工学部客員教授。通称「カミカゼ・ウキョウ」。登山・レーシング活動にはTeamUKYOで参加する。



プロフィール

生い立ち

小学生の頃から、自転車や登山にいそしむ。中学・高校は、日本大学第三中学・高等学校に進学。陸上部入部し、長距離選手として活躍。バイクの転倒事故を起こし、大学進学を断念する。ちなみに日大三高福王昭仁(現読売ジャイアンツフロント)と落語家の立川志らくは同期生。



レースデビュー

筑波サーキット前のレースガレージで寝泊りしながら、パチンコ店店員、トラック運転手などで費用を準備し、1983年にFJ1600筑波シリーズでデビューを果たす。この年の同シリーズでシリーズチャンピオンに輝き、翌1984年も鈴鹿FJ1600Aクラスでシリーズチャンピオンを果たすなど好成績を残す。



カミカゼ・ウキョウ」

1985年には全日本F3選手権にステップアップし、ランキング6位の成績を残す。またこの年の8月にフランスへと渡り、フォーミュラ・ルノースクール(ウィンフィールド・レーシングスクール)を受講し、アラン・プロストの持っていたコースレコードを更新する。首席での卒業のため、本来であればエルフスカラシップを獲得するところだが、日本でF3の出走経験があったことからスカラシップの対象外とされ、次席のエリック・コマススカラシップを獲得した。



1986年はフォーミュラ・ルノーフランス国内選手権に出場し、第3戦マニクールポールポジションを獲得し2位入賞を果たす。同年シリーズ途中から1987年までチーム・デュケンからフランスF3に参戦。リタイヤを恐れない攻撃的なドライブで注目を集めた。レース中のクラッシュで瀕死の重傷を負い、日本へ「片山右京 死亡」の誤報が流れたこともあった。その恐いもの知らずの走りから「カミカゼ・ウキョウ」と呼ばれた。



全日本F3000時代

1988年

1988年から、日本のトップカテゴリーである全日本F3000選手権に出場。この年は、アパレルメーカーの「BA-TSU」からの資金を元に、自前チームの片山企画から参戦した為、ドライバーとチームマネージャーの二足のわらじを履くこととなり苦戦を強いられたが、シーズンランキング11位の成績を残した。またル・マン24時間レースにフランスのクラージュ・コンペティションから出場した。



1989年

1989年は、前年の苦労から由良拓也率いる有力チームの1つであるムーンクラフトへ移籍するも、マシンバランスが悪く、戦闘力に欠けるオリジナルシャーシでの参戦であったために結果が出なかった。また同チームより国際F3000選手権にもスポット参戦したが、こちらも同様の理由から低迷した。



併せて全日本ツーリングカー選手権にも「出光石油 with Footwork」からエントリーし、村松栄紀とともにホンダ・シビックをドライブした。常に上位争いに顔を出し、第4戦ではクラス優勝を飾った。



1990年

1990年には名門のヒーローズレーシングへ移籍し実力を開花させ、一躍トップドライバーの仲間入りを果たしシーズンランキング5位となるも、黒旗無視による失格など出入りの激しいレース展開は変わらずであった。なおこの年にF1のブラバムヤマハのテストドライバーに抜擢された。
1991年

1991年には同チームで安定したドライブを見せ、ライバルであったロス・チーバー星野一義黒澤琢弥エディ・アーバインらを下し、バブル景気で参戦台数が多く上位争いが激しかったこの年のチャンピオンとなる。ちなみに、この年の8月に中嶋悟の引退が発表されたため、「今年チャンピオンを取る片山が次のF1最有力」との話が一人歩きし始め、右京へのプレッシャーを高めることとなり本人を苦しめたと言われる。



F1時代

1992年

全日本F3000チャンピオンとしての実績が認められ、前年まで日本人2人目のF1レギュラードライバーである鈴木亜久里が在籍していた、ラルースチームから日本人3人目のF1レギュラードライバーとして参戦した。なお、F1参戦には日本たばこ(当初は「CABIN」、後に「MILD SEVENブランドで右京がF1を引退するまでスポンサーした)によるバックアップも大きく影響している。



カナダGPではレース終盤までポイント圏内走行の健闘を見せる場面もあった(結果はリタイア)が、ラルースチームの戦闘力不足によりノーポイントに終わる。因みにこの年、予備予選落ちも経験している。



出走回数:14戦

獲得ポイント:0

予選最高位:11位(カナダGP)

決勝最高位:9位(ブラジルGP、イタリアGP)

1993年

1993年に、ヤマハエンジンを得た中堅チームのティレルに移籍した。チームメイトは前年からティレルに在籍していたベテランのアンドレア・デ・チェザリスであった。なお、1990年からブラハム・ヤマハのテストドライバーを務めていた。



この年は新車「ティレル・021」の投入が遅れた上、その新車がマシンバランスを欠いた失敗作だったため見るべきところがなかった。なお、開幕から数戦に渡り使用した020Cのモノコックは、1991年に中嶋悟が使用したものそのものであったという。



出走回数:16戦

獲得ポイント:0

予選最高位:13位(日本GP

決勝最高位:10位(ハンガリーGP)

1994年

ティレル021(022カラー)1994年はマシンバランスに優れたニューマシン「ティレル022」を駆り随所で速さを見せる。開幕戦ブラジルGPで5位入賞し初ポイントを獲得、その後ローランド・ラッツェンバーガーアイルトン・セナの死亡事故が起きたサンマリノGPで5位、イギリスGPでも6位にそれぞれ入賞し、ドイツGPでは予選で当時日本人最高位となる5位を獲得、スタートで2位にジャンプアップし、マシントラブルでリタイアするまで3位をキープするなど、日本人初のF1優勝の夢を現実的なものにした。



しかし、資金不足でテスト回数も制限され開発が思うように進まず、それゆえ信頼性が上がらずにトラブルが多く、入賞したレース以外では途中リタイアという展開が多かった。チームメイトのマーク・ブランデルスペインGPで3位表彰台を獲得し、自身もドイツGPでの2位走行、ヨーロッパGPではスタート直後のエンジンストールで最後尾まで落ちながら入賞圏内には僅差の7位の激走を見せるなど、印象的な走りを見せていただけに惜しまれるシーズンとなった。



後に、1994年に印象的な走りを見せた理由として、実姉が出産時の事故で他界したことと、自らが癌であると診断された事(後に誤診と判明)を理由に挙げている。



出走回数:16戦

獲得ポイント:5

予選最高位:5位(ドイツGP、ハンガリーGP)

決勝最高位:5位(ブラジルGP、サンマリノGP)

1995年

1995年は「今年の注目ドライバーはウキョウ・カタヤマだ」と、当時フランスTF1テレビで解説をしていたアラン・プロストに言わしめた程に大きな期待を持って迎えたシーズンとなった。



右京はチームに「チームメイトはとにかく速いヤツにしてくれ」とオーダーしていたが、チームメイトにミカ・サロを迎えると、サロの母国のフィンランド携帯電話メーカーNOKIA」がメインスポンサーになり、サロが結果を出すにつれてチーム体制がサロ寄りになっていったことと、油圧形式ダンパーのハイドロリンク・サスペンションを独自開発したが開発体制が脆弱で熟成できず、通常のサスペンションへ戻すといった開発の迷走もあり低迷した。



ポルトガルGPではスタート直後に宙を舞う大クラッシュを起こし、次のヨーロッパGPはドクターストップがかかり欠場する。これら様々な要因でシーズンを通じて低迷。その原因の一端は右京のトレーニング方法に問題があったとの話もある。



右京は1994年の戦績を上回るべくシーズン前にハードなトレーニングを行ってきた。無暗に重い負荷を掛け筋力を増強する方法だった。当時の右京は「10kgを10回上げるのと100kgを一回上げるのは同じ」と考えていたらしい。体が一回り大きく見えるほどに筋肉を付けたが、引き替えに敏捷性を奪う結果となった。F1ドライバーに必要なのは300km走りきる間、同じ動作を正確に繰り返す筋肉であり、筋肉の性質を考慮せずにトレーニングを行ったことは自分の首を絞める結果となった。



出走回数:16戦

獲得ポイント:0

予選最高位:11位(ブラジルGP)

決勝最高位:7位(ドイツGP)

1996年

1996年は前年のチームの成績が良くないのと、広告面での成果が予想以上に悪かった事でメインスポンサーの「NOKIA」が撤退してチームは資金難になる(ティレルが1996年のスポンサーフィー倍額を要求して「NOKIA」を怒らせてしまったとの説がある)。



また1996年の右京の契約がチームとなかなか合意できない間にシャーシティレル024)の開発が進んでしまい、既にチームと契約済みであったミカ・サロの体型に合わせてコクピット形状が決められてしまう。その為、右京には大きすぎるコクピットに成ってしまい対策として、シートを嵩上げし従来よりも径の大きなステアリングを使用する事になった(シーズン前の体制発表の場でこのシャーシに乗ったら右京の体が見えない程すっぽりとハマってしまい同席していたジャーナリストからは爆笑された)。



その結果、実際にステアリングを切った量と右京がイメージする切り角にズレが生じてしまう事になった。(右京はこの現象を「手アンダー」と呼んでいた)右京用のシャーシが製作されたシーズン中盤までこの現象に悩まされる事になる。この様に辛いシーズンを送る事になり、ドイツGPの予選では前後のタイヤを同じフロントタイヤを装着して少しでも空気抵抗を減らそうとした「奇策」まで飛び出した。