蛙(かわず)が大海を知ったとき

放課後ふと音楽教室のそばを通りかかった。何と僕の好きな曲「カタリ、カタリ(薄情けという邦題もあり)」を歌っている奴がいた。しかも上手い、朗々と歌っていた。どんな奴が歌っているのか気になって、窓からのぞいたところ、松本であった。いつもはおとなしく、目立たず成績も進学コースでは中程度であった。「あいつがこんな歌をしかもいい声で歌うなんて信じられない(unbelievable!)」ピアノを弾いていたのがまた同級生の石丸麗子であった。石丸はピアノの手を止めて「入りませんか」と言うのでとりあえず教室に入ってみた。「松本、お前上手いな」「どうも有り難うございます」「ステファノやパバロッティみたいに歌えるといいんですがね」そこでぼくは又驚いた。「お主、出来るな」と心の中でつぶやいていました。こんな田舎の学校にジュゼッペ・ディ・ステファノの「カタリ、カタリ(薄情けという邦題もあり)」、そしてルチアーノ・パバロッティを知っているのは僕ぐらいなものだと思っていたからである。「石丸さんはもっと上手いんですよ、聞いてもらったらどうですか」石丸は恥ずかしがりもせず、歌いだしたのである。
「O! mio babbino caro,mi piace,♪~~~~~~~~~~」
しかもプッチーニの(ジャンニ・スキッキより)「私のお父さん」を歌ったのである。これもまた上手い。原語で歌った。優しく哀願するように。シビレタ~~~。僕は石丸を単なる小太りの女の子としか見てなかったのである。スマートな美人に見えてきた。何と奴らは、僕の好みを知っているかのようであった。ぼくは、はにかみながら少し拍手をした。石丸は「お粗末さまでした」と言ったので僕は「お粗末どころか随分上手だよ」と少しお世辞を言ってみた。「僕はモンセラート・カバリエ(スタイルは別として)の歌が好きだけど」と言うと、彼女は「カバリエも、それからマリア・カラスレナータ・テバルディも素晴らしいし、美人系ではアンナ・モッフォミレッラ・フレーニ、チャーミングなキャスリン・バトルも澄み切った天使のような歌声でいいですよね」」と目を輝かせながらいった。更にカラヤンとニュー・イャーコンサートで共演し「春の声」を歌ったことまで知っていたし、CDの録音状態がとても素晴らしいとまで言った。彼女の親父がタンノイのスピーカーでよく聞いているとのことだった。僕は体に稲妻がビリビリーと走るのを感じた。僕が知っている名歌手たちを全部知っているなんて何ということだろう。こんな田舎だから知っているのは俺様一人ぐらいだと自負していたのに。負けたと思った。こんな田舎(バスが一時間に一本)にもクラッシックに造詣の深い奴がいるんだとうれしくもあった。彼らは東京にいって音楽の道に進み、それぞれソフ゜ラノとテノール歌手になりたいとのことであった。僕も上京しマルクス経済学を学び、革命を起こしたいと語った。暫くクラッシック談義や将来のことを話してお開きとなった。
その後、僕は彼らに負けまいとがむしゃらに勉強をした。
卒業後、石丸と松本はそれぞれ大学は違ったが東京の音楽大学に入った。
僕は地元の名も無い大学に入った。(僕ちゃん、世の中は広いし、あなたよりレベルが上で、もっとがんばっている人達がたくさんいるんですよ。少しばかり知っているからといって天狗になってはいけませんよ)と天上から聞こえてくるようだった。人間は現状に満足していると成長が止まるものである。「まだまだ勝負はこれからです。御互いがんばりましょう」と痩せ我慢の便りを彼らに送った。「春風(しゅんぷう)にむかいて我は丘に立つ」(水原秋櫻子の句だったと思う)の心境である。
井の中の蛙が目を覚まし大海を知ったと言う一席でした。後日談はのちほど。
注釈(1)=「春風」は「はるかぜ」と読まずに「しゅんぷう」と詠んでください。「はるかぜ」だと「そよかぜ」が吹いてホンワカ気分になる。「しゅんぷう」だと肌を刺すような緊張感があり、困難に立ち向かう青年の決意がよく出ている。温度差が感じられるのである。
注釈(2)= 石丸と松本は仮名です。